きょうだい児は「かわいそう」だけじゃない。教室で娘が傷ついて気づいたこと

こまち
こまち

こんにちは、こまちです!

うちには障害のある子ども「しょーくん」がいて、長女はそのきょうだいです。

お姉ちゃんとして、毎日頑張っています。

長女(10歳)は、5年生になってから、
学童の帰り道でちょこちょこ自分のことを話してくれるようになりました。

でも家では、あんまり話さないんです。

こまち
こまち

今日は学校何があった?一番おいしかった給食メニューは?

長女
長女

んー、エビチリー。楽しかったぁ

給食のメニューとか、今日あったことの表面だけとか、そんな感じで終わることが多いです。

やっぱり、親がうっとおしいお年頃かな…

ちょっとでも話してくれるのは、

ママと二人きりの、学童の帰り道だからかもしれません。

並んで歩いているときだけ、ぽろぽろっと、本題に近い言葉が出てきます。

その日、帰り道で聞いたのが、教室でのことでした。

ある子が「自分は発達障害だ」と、勢いよく話していた、と。

私は、その場では「そうなんだぁ」と頷いて聞いていたつもりでした。

でも心のどこかが、ずっとぎゅっと握られているみたいでした。

相手の子のことを、悪い子だとは思わない。

悩んでいることもしんどいこともあるんだろうな。

ただ、長女(10歳)の声のトーンに、なにか重いものが混ざっている気がして。

こまち
こまち

何か気になってる?

長女
長女

…病院でお医者さんに言われたわけでも、
検査したわけでもないんだって。
だから、なんて反応すればいいか分かんなくて。

うちには、障害のある子ども「しょーくん」がいます。

だからこそ長女(10歳)にとって、

「発達障害」という言葉は、テレビの向こうの話じゃない。

家の中の現実として、ずっとそばにある言葉なんです。

だからこれは、ただの「学校での雑談」では片づけられないな、と思いました。

長女(10歳)のしんどさの形が、

私にはまだ半分も見えていないのかもしれない、という怖さもあわせて。

教室で、長女(10歳)がしんどくなった日

二人きりの帰り道で、長女がぽろぽろ話してくれたのは、短い断片でした。

「すごい勢いで言ってて」
「なんか、ずっとついて来てその話をされて」

教室のどこで、誰が聞いていたかまでは、私は聞き返しませんでした。

聞き返すより先に、並んで歩く長女の横顔の方が気になったからです。

いつもと同じ道のはずなのに、その日だけ歩調が少しだけゆっくりだったような気がします。

「つらかった?」って聞いたら、「ううん。大丈夫」って返ってきます。

「でも、疲れる」

これが、長女の本音でした。


うちの子にとって、それがただの雑談じゃなかった理由

長女にとって、

「発達障害」は生活のすぐそばにある感覚です。

家の中には、

その言葉と結びつく毎日があります。

困ることもあるし、

長女に一番に手をかけてあげることができないし、

長女に手伝ってもらう場面もあります。

楽しいはずの場面にも、ほんの少し工夫が必要な瞬間も。

そういう積み重ねのなかで、長女はその言葉を知ってきました。

だから、

雑談みたいに軽く聞こえる言い方でも、胸に刺さることがある。

言葉そのものが悪い、という話じゃなくて、

その言葉の背景まで、うちの子は知っているからです。

私が学校に伝えたこと

こういうことがあった時、

どこまでを「気にしすぎ」にして、

どこからを「ちゃんと伝える」にするのか、正直いつも迷います。


大げさにしたいわけじゃない。

でも、長女が辛い気持ちでいるのだから、

見なかったことにもしたくありませんでした。

まずは長女の話を聞いて、

本人がどう感じたのかをできるだけそのまま受け取るようにしました。

「それは嫌だったね」と決めつけるのではなくて

「どんなふうにしんどかった?」と、少しずつ。

「話してもいいんだよ」と伝わればいいなと思いながら。

そのうえで、学校にも相談しました。

誰かを責めたいわけではないこと。

ただ、長女(10歳)にとっては軽く流せる話ではなかったこと。

そして、家の中に障害のあるきょうだいがいるからこそ、

言葉の刺さり方が少し違うかもしれないこと。

そこを、できるだけ静かに伝えました。

学校の先生に話すのも、毎回少し勇気がいります。

「気にしすぎと思われないかな」とか、

「うまく伝わらなかったらどうしよう」とか、


親のほうも勝手に構えてしまうからです。
(私はほんとほんとに電話が苦手です)

それでも今回は、

長女(10歳)がすぐに全部を言えなかったぶん、

私たち大人が橋渡しをする番なんだと思いました。

長女(10歳)がすぐに言えなかったこと

きょうだい児って、気持ちを飲み込むのが上手になってしまうことがあるのかもしれません。

家の中でいろんなことを見ているからこそ、

「これくらいは我慢しなきゃ」と思ってしまったり、

「今ここで自分のことで困らせちゃいけない」と、先回りしてしまったり。

長女(10歳)の中にも、

そういう小さな遠慮が積もっていたのかもしれません。

親の私は、つい「言ってくれたら分かるのに」と思ってしまいます。

でも本当は、その「言う」までが難しい。

言葉になる前に、胸の中で何度も飲み込んで、

大丈夫なふりをして、いつもの顔に戻してしまう。


あの日の長女(10歳)を見ていて、

しんどさって、はっきり泣いたり怒ったりする形だけじゃないんだなと、

あらためて感じました。

心のしんどさは、

いつもきれいに「つらいです」という言葉で出てくるわけじゃない。

だからこそ親の側も、言葉だけじゃなくて、声のトーンとか、間とか、

「なんとなくいつもと違う」に気づけるようでいたいなと思いました。

「かわいそう」だけでは言い切れない、きょうだい児の気持ち

きょうだい児のことを話すとき、私はときどき、

「かわいそう」という言葉だけでは足りないなと思います。

分かっているからこそ傷つくことがある。

でも同じくらい、分かっているからこそ持てる優しさや、まなざしもある。

きょうだい児の気持ちの中には、

しんどさだけじゃなく、言葉にしにくい複雑さがいつも一緒にあるのかもしれません。

親にできるのは、

全部を分かることじゃなくて、見えにくい気持ちがあるかもしれない、

と忘れないことなのかなと思います。

もし今、きょうだいのことで胸がぎゅっとすることがある人がいたら。

「気にしすぎかな」と思っている人がいたら。

その感じは、きっと軽く流していいものではないんだと思います。


大きな声で言えない気持ちにも、ちゃんと意味がある。

私は今回のことで、そんな当たり前のことを、もう一度教えてもらいました。

さいごに

同じように、きょうだいのことで胸がぎゅっとしたことがある方に、

「その気持ちは気にしすぎじゃないよ」と、そっと伝えられる記事になっていたらうれしいです。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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